史記・本紀

00.三皇本紀

唐の司馬貞の補作であって司馬遷の作ではない。司馬遷は<五帝本紀>の黄帝から筆を起こしている。ここで採り上げられるのは庖犠氏・女[女咼]氏・神農氏の三者。

庖犠氏
燧人氏から天下を受け継いだ木徳の王。蛇身人首、母は華胥。庖犠氏は八卦を作り記録の手段として結縄にかけて書契を用いた。
犠牲の動物を飼って庖厨で料理した所から庖犠の名を生じたとも言う。姓は風。陳に都を置いた。
女[女咼]氏
庖犠氏に変わって立った。同じく蛇身人首、姓は風。
諸侯の共工氏が祝融と戦って怒って頭を不周山にぶつけ山が崩れた。そのため天を支える柱が折れ、地面を繋ぐ綱が切れた。この時女[女咼]は五色の石を練って天の裂け目を補い、大亀の足を切って天を支える四本の柱とし、蘆の灰を集め洪水をせきとめて天下を救った。木徳の王と言う説あり。
神農氏
人首牛首、姜姓。母は女登。
火徳の王であるので炎帝とも言う。木で農具を作り、農業を教えたことから神農の名がある。医薬、五弦の瑟、交易、易の六十四爻などの創始者。
始め陳に都を置いたが、のち曲阜に移った。在位百二十年で崩じ長沙に葬られた。子孫に軒轅氏(黄帝)が出現した。

天皇・地皇・人皇を三皇とする説あり。

<始皇帝本紀>には「始皇帝」という名称を決める過程で李斯らの上奏の中に「天皇・地皇・泰皇」の名が出てくる。

 

01.五帝本紀

五帝とは伝説の時代の五人の帝王。黄帝・センギョク・帝コク・尭・舜を言う。

黄帝
生まれついての神知の持ち主。長じて戦術を習得し、徳をおさめ、穀物の生産を導いて民政の安定をもたらし諸侯の信望を得た。平定と開発に奔走して一ヶ所に定住する事が無かった。
国の機構を整え、暦を作り、四季の移りに合わせて生産の増大をはかり国力増強につとめた。
センギョク
黄帝の孫。温厚で思慮深く誠心をもって民衆を教化、統治の領域を拡大した。
帝コク
黄帝の曾孫。有り余る能力と仁愛の心で天下の信望を集めた。
コクの子。自らを厳しく律し、天下を和合させ、天の運行をはかって民衆に適切な農業生産を教えた。
東西南北の地に役人を派遣して春分・夏至・秋分・冬至を定め、生産の発展と生活の向上をはかった。
庶民の出。父が後妻の子を偏愛して何度か舜を殺そうと計ったが巧みに難を逃れた。
尭の娘二人を得て後、舜の行く所に人が集まり教化された。
やがて天子となってますます信望を集め、周辺の未開の地域までことごとく舜の治下に帰するに至った。

02.夏本紀

夏王朝の始祖は帝禹。姓は[女似]で黄帝の玄孫、帝センギョクの孫にあたる。父の鯀が帝尭の世に起きた大洪水をしずめるのに失敗した後を受けて、苦心経営の末ついに治水に成功、民政を安定させた。帝舜の禅譲により天子の位につく。

夏王朝は一七代、帝履癸(桀)で滅び。夏の子孫は周の時代になって杞の国に封じられた。

 

03.殷本紀

殷の遠祖契は帝コクの子。母の簡狄はコクの第二妃で燕の卵を呑んで契を産んだ。契は禹の治水事業を助けた功績によって商(河南省)の地に封じられた。

契から数えて十四代目が武王と称した湯王。名宰相伊尹の補佐を得て夏王朝の桀を鳴条で打ち破り天下の諸侯を従えて殷王朝を開いた。

紂王(帝辛)の時代、妲己を溺愛し傲慢で暴虐だったため人心が離れた。西伯(周の文公)の子武王と戦って敗れ鹿台に登って火に身を投じ、殷は湯王以来三十代で滅びた。

 

04.周本紀

殷を倒した武王(姫家)の国。

武王が崩御すると弟の周公旦が摂政として諸制度を整え、周王朝の基盤を固めた。その後、成王・康王と安定の時代が続いたが昭王・穆王の代から次第に衰えはじめ、脂、の代には虐政に対抗する国人の反乱が起こり、更に幽王が褒[女似]の色香に溺れた為諸侯が離反。異民族と共に幽王を殺して財貨を奪うにいたった。

以降、周の権威は地に落ち、実質的には一小国にすぎなくなった。

武王以来三十七代で秦に滅ぼされる事になる。

 

05.秦本紀

秦は中国でも西の外れ、西戎の地に位置した国。

秦が中原諸国に重きをなすようになったのは春秋時代、穆公の代。百里渓、蹇叔、由余などの賢才を登用して国力を充実させ西戎の覇者と呼ばれた。

戦国時代に入り、他国の優秀な人材(商鞅、張儀、范雎)を登用していき、始皇帝の代を迎えるや、対抗する六国を次々に滅ぼしてついに中国を統一した。

 

06.秦始皇帝本紀

始皇帝の名は政。姓は嬴、または趙。秦の昭王の四十八年(前二五九年)正月、趙都邯鄲で生まれた。父は荘襄王、母はもと呂不韋の妾であった。

十三歳で即位、はじめ国政を宰相の呂不韋に委ねていたがロウアイの乱を鎮圧後、呂不韋を自殺に追いやって実権を掌握。始皇二十六年(前二二一年)に天下を統一した。

始皇の名称は天下統一後、廷尉李斯らの建議に基づいて自ら定めたもの。同時に周代の「封建」制度を廃して全国を三十六郡に分ける「郡県」制をしき中央集権的国家体制を確立した。他、度量衡、貨幣、律暦、車軌、衣冠、文字などを規格統一して天下統一の実績を上げ、また万里の長城を築くなど多くの治績を上げた。

晩年は神仙思想に凝り、不老不死の薬を求めさせたが始皇三十七年七月、東方巡狩の途中病死した。

公子胡亥が二世皇帝となったが実権を宦官趙高に握られ、過酷な徴発をしいた為農民蜂起を招き結局趙高の奸計にあって自殺させられた。後を継いだ子嬰は在位四十六日で劉邦の軍に下り秦は滅んだ。

 

07.項羽本紀

秦滅亡後、劉邦と覇権を争った西楚の覇王項羽の生涯と彼の強烈な個性に引かれつつ激しく行動する英雄豪傑たちの軌跡を描く。

 

08.高祖本紀

高祖劉邦(前二五六又は前二四七〜一九五年)は前漢初代の皇帝。沛は豊邑の人。字は季。生まれつき鼻が高く、竜に似た顔だちであった。中農の出で酒色を好み、家業を顧みず水の亭長となっていた。そのころ娶ったのが呂后(中国三大悪女の一人)である。

陳勝・呉広に続いて沛から挙兵し、項羽と対抗しつつ次第に勢力を増し、激しい抗争の末、前二〇二年、ついに項羽を滅ぼして天下を統一、国号を漢と称し国都を長安に定めた。

 

09.呂后本紀

呂后は高祖が無名の頃連れ添った糟糠の妻。のちの恵帝と魯元公主を生んだ。男勝りの気性で高祖の天下統一を助け、その後、建国の功労者である韓信や彭越を誅殺する。

高祖没後、権力を握った呂后は帝の廃位も思いのまま、更に自分の一族である呂氏の人を次々と王に封じ、重要ポストに登用するなど専横を振るった。

このため劉氏の社稷は危殆に瀕したが、やがて呂后が死ぬと、周勃、陳平ら高祖の旧臣が立ち上がり、呂氏一族を一掃して新帝を立てた。

 

10.孝文本紀

文帝劉恒(在位前一七九〜前一五七年)は高祖劉邦の第四子、母は薄太后。

文帝は高祖以来の重臣である陳平、周勃らの補佐を得て穏健政策による天下の安定をめざし、一族連座制、政治誹謗罪、四肢切断の体刑を廃止し、農地の租税を減免した。

漢代有数の名君。

 

11.孝景本紀

漢の第六代皇帝劉啓(在位前一五六〜前一四一年)は父の文帝が代王の頃宮女の竇姫との間に生まれた。文帝は王妃との間に四人の男子をもうけていたがつぎつぎと病気で亡くなり啓が太子となり、文帝が崩じるに及んで即位した。

 

12.孝武本紀

武帝劉徹は漢朝第七代の天子(在位前一四〇〜前八七年)。景帝の中子で母は王太后。景帝の四年に太子となる。景帝の没後、位につく。

他に記述が無いくらい鬼神を信じ重視していた。